浅草ロック座に行ってきた話

女2人でストリップの老舗、浅草ロック座にいきました。

浅草ロック座がどんな歴史があって、
浅草の歴史に欠かせない存在で、
六区にあるからロック座で、
とかそういう話はぐぐって読んできてください。

きれい~たのしい~とか
そういう話もぐぐって読んできてください。


ロック座のストリップのエモさを
どうしても書き留めたいので書きます。



端的に言うと、
人間の一番夢を見ているところと
人間の一番生々しいところの中庸を取ったら
人間の現実と一番かけ離れた
とてつもなくエモいものが現れた。

もうすごいよ。


あと単純に、女性の体の造形は美しい。
お花見てキレイっていうのと同じ感覚。
自然な物の造形はよくできてる。






詳しく書きます。


ロック座の新春公演を見てきたのですが、
7人の女性ひとりひとりのオンステージが
中休憩含む1時間20分くらいで行われました。
概ね、
着物を着て登場
→ちょっと芝居やダンス
→スルスルと脱いでいく
→あられもない姿
という進行でショーは進みます。



きちんと帯上げとかもしてあって
そこそこちゃんと気味に着物を着て出てくるんです。
かわいいおねえちゃんが。

ここで人は夢を抱きます。
かわいいなぁ、ステキだなぁ。
笑顔がステキだなぁ。or真顔がステキだなぁ。
それ以外の、いろんな姿を見てみたいなぁ。
そんな気持ちを登場から寸劇・ダンスで募らせます。



ちょっとストーリーなんか入るとまたよい。
そんないきさつが、夢をより実感の伴ったものにしてくれます。





そして、BGMと照明がすっと落ち着いて
(BGMはピアノとかバラードとかが多かった)
おねえちゃんは帯や着物を脱ぎ、肌着になります。

ここではたと気づきます。
あー、和服はえろい。これはすごいや。
体の見え方、見せ方、もう脱ぐための服。
裾から見え隠れするいろんな部位、肌。
脱がせるための服なのだと。

そんな、肌着一枚、ゆるくまといながら
足を真ん中の舞台へと進めるわけです。



しおらしげに、たったひとりで歩み寄ってくる。
この、見てしまった感。
ぞくぞくしていきます。


真ん中に進んで、また踊るわけですが
ここで踊り子さんの個性がすごくでる。
帯を吊り下げてその布にぶらさがりアクロバティックに踊る方、
たぶんクラシックバレエをやってたであろう動きをする方、
スタンダード?にほぼ座ってゆっくりと踊る方。

目の前にあるのはいずれも、
本当にもう、人体。生々しいありのままの姿。
ライブなので目の前に本物が繰り広げられているわけです。
なのに、なんでこんなに夢見心地なんだろう?
いろんな夢を、ひとりひとりの踊り子さんが見せてくれる。
むしろ醒めさせてくれないんですね。

しっかりと目を見ながら、ゆっくり、ときにダイナミックに
動く目の前の女性に引きずり込まれてしまう。
これ以上ない非日常で、力が抜けてしまいました。



夢と生々しさを足して二で割ったら
日常になるのではなく、
非日常になりました。




すべてのショーが終わって気づくんです。

世の中にいるすべての人間はたぶん美しいけど
そんな美しさを日頃見つめることは現代人には必要じゃない。
毎回セックスの度に、美しい…と感動してたらセックスに集中できない。

でも、ストリップはものすごい密度でそれを思い出させてくれる。
彼女たちが我々の代わりに、その美しさに向き合って
そして指し示してくれる。




ちっぱいとかでかぱいとかじゃない、いい悪いじゃない、
いろんな夢、いろんな女体があって、非日常があって、
その手前に日常がある。


ロック座から出ると、日常にもどります。
でも非日常とのコントラストは、
日常をいい悪いじゃない、ありのままの日常として
もう一度見つめ直させてくれます。








また行こう。
でも私の日常を私が精一杯生きてからにします。
彼女たちは今日も明日も明後日も美しさに、
非日常に向き合う日常を生きてくれているので、
それに恥じないよう頑張らないと、と思いました。



以上です。